月刊 茶句里 SAKURI

sakuri.exblog.jp
ブログトップ | ログイン

自分の仕事

 「だらだらすることと、怠けることとは違うんよ」。
 子どもの頃に、母がそう教えてくれたことを、今でもふと、思い出すときがあります。
 今日、車を運転してるときに、ラジオでおもしろいことを言ってたんだけどね、と母が教えてくれたのは、ある作家さんのこんな話でした。

 「だらだらする、ということは、何もしていないことではなくて、自分でだらだら〈している〉こと。だらだら〈する〉なんだから。
 でも、怠ける、ってことは、自分の仕事をしていないこと。
 例えば、行列のできてるお店の前にとりあえず並ぶこと。これやっといて、と上司から引き継ぎで頼まれた仕事を、自分の知恵を交えないで、言われたままにしかして返さないこと」。

 なるほどなあ、と思って。そう言って、目を輝かせながら、母は「だからね」とつづけて言いました。
 だからね、お母さんもあなたたちもね、休みの日にだらだらしてるのは、あれは「している」ひとつの運動なんやから、悪いことでもないんよね。そう思ったんよ。罪悪感が、あるじゃない。だらだらしてると、なんとなくね。でも、怠けてる、っていうことの方が、本人に罪悪感なんてないぶん、気をつけないとわからんことなんよね。指摘されても「どうして?」と思う人もいるやろうしね。

 休みの日に、部屋に光を招き入れようと、窓のカーテンに手がふれた瞬間。仕事前に、洗濯物を干そうと、ベランダに出て風の匂いをかいだ瞬間。仕事のあいまに、カフェで一服しようと、上り坂を歩きながらふと顔を上げた瞬間…。
その時々に、母の口にしていたこの話が不意に思い出されて、だらだらすることもほどほどに、何より、怠けてはいないかには注意して、自分の仕事を、と思いを新たにしています。
# by mille-ka | 2015-05-27 09:40 | 私の好きな言葉

「世界はうつくしいと」

 五月も折り返しを迎えようとしていた頃、詩人の長田弘さんが、月の初めに亡くなられたことを知りました。
 訃報に接して、ひと言でも広く長田さんの面影にふれたくて、コンビニで新聞全紙を買い込んだその日。ためらう涙と沈黙する心のままに、長田さんの本を手に取り、おうかがいを立てるように、ページをめくりました。
 本を通して、もうこの世では会えない人の面影にふれる。指先が紙にふれ、瞳が言葉にふれる。その感触が、そのまま胸の奥に響いて、大切なひとりの人がこの世に生きていたぬくもりそのものが、自分のなかに結実して、宿される。
 もう会えない。
 また会おう、ではなくて、もう会えない。その切実な感触が、会えない人とつながりつづけるひとつの約束となって結ばれる。それもまた、成就のかたちであると思うのです。長田さんの詩を繰り返し読み、そこに綴られた言葉を繰り返し咀嚼することで、詩と、死によって残された約束を、自分のうちに感じていました。

 本屋の棚に並んだ背表紙からお名前だけは度々目にしていた長田弘さんのことを、はじめてそのお声から知ったのは、今年のこと。たまたまネットでたどり着いた数年前のラジオの音源を通してでした。
 お声を聴いて、お話に惹かれ、たちまちファンになりました。
 ラジオの音源はそれから毎朝のように繰り返し聞き、長田さんの本はカフェへ行くときの自分のもうひとつの手であり、眼であり、肺となりました。
 長田弘さんが、風景について語るとき。言葉について語るとき。習慣について語るとき。死者について語るとき。その時々に、私はからだについて教えられ、人について教えられ、整体の可能性について学びを受け、呼吸のくつろぎを取り戻しながら、自分の知りたいすべてについて学び続けていました。
 ですから、ついに生前お会いすることはありませんでしたが、長田弘さんは、私の先生。そう思っています。

 長田弘さんの作品の中に、「世界はうつくしいと」という詩があります。ラジオのなかで長田さんが朗読されていた詩です。思い切って全文、ご紹介します。

うつくしいものの話をしよう。
いつからだろう。ふと気がつくと、
うつくしいということを、ためらわず
口にすることを誰もしなくなった。
そうしてわたしたちの会話は貧しくなった。
うつくしいものをうつくしいと言おう。
風の匂いはうつくしいと。渓谷の
石を伝わってゆく流れはうつくしいと。
午後の草に落ちている雲の影はうつくしいと。
遠くの低い山並みの静けさはうつくしいと。
きらめく川辺の光りはうつくしいと。
おおきな樹のある街の通りはうつくしいと。
行き交いの、なにげない挨拶はうつくしいと。
花々があって、奥行きのある路地はうつくしいと。
雨の日の、家々の屋根の色はうつくしいと。
太い枝を空いっぱいにひろげる
晩秋の古寺の、大銀杏はうつくしいと。
冬がくるまえの、曇り日の、
南天の、小さな朱い実はうつくしいと。
コムラサキの、実のむらさきはうつくしいと。
過ぎてゆく季節はうつくしいと。
きれいに老いてゆく人の姿はうつくしいと。
一体、ニュースとよばれる日々の破片が
わたしたちの歴史と言うようなものだろうか。
あざやかな毎日こそ、わたしたちの価値だ。
うつくしいものをうつくしいと言おう。
幼い猫とあそぶ一刻はうつくしいと。
シュロの枝を燃やして、灰にして、撒く。
何ひとつ永遠なんてなく、いつか
すべて塵にかえるのだから、世界はうつくしいと。

 先日、東京駅にむかう電車の中に、座って本を読む少年の姿がありました。まばらに座席が埋まっているほどに車内はすいていて、私は少年の隣の席に着きました。
 中学生か、高校生に入りたての年頃でしょうか。髪は清々しく刈られていて、エナメルの黒い大きなバックを床に置き、制服の白い半袖のシャツからは日焼けした腕が伸びています。
 頭をわずかに垂れて本をじっと読む。その佇まいは、静かに輝いていました。その少年の姿にならうように、私もカバンから本を取り出して読みはじめました。
 何を読んでいるんだろう。車内で隣り合わせた人の読み物にそんな風に関心を寄せたことなんてなかったのに、彼の姿をいっそう明るいものとしているその文庫本のタイトルが知りたくなりました。目の前に下がる風鈴のその音を聴いて確かめてみたいような、そんな気持ちで。
 終点の東京駅に着いたとき、周りの人たちの立ち上がる気配にまぎれて、そっと視線をすべらせると、少年の手元には、小川洋子さんの『博士の愛した数式』が。私も大好きな本です。耳の奥で風鈴の涼やかな調べが響くような心地がしました。
 そうして、不意に、先の「世界はうつくしいと」の詩の全景が頭のうえに広がりました。
 
 長田さんは、「自分の生まれる前にある言葉というものを、受け取って、それを次の世代に受け渡してゆくのが人間の役目ということ」だとおっしゃっていました。

 「夏の日の、少年の本を読む姿はうつくしいと。」
 東京駅のホームに降りたとき、おのずと浮かんできたこの言葉を胸に抱きながら、長田さんの残していかれてた言葉のたすきが受け継がれていることを、夏の日の少年の姿に重ねながら、感じていました。
# by mille-ka | 2015-05-25 09:40 | 曇り時々晴れ

からだの船 2  —私の先生—

 その言葉が目に入ると、つい手に取ってしまう、買ってしまう。そんな、自然と心惹かれるある言葉。意識しているわけでなく、自分のうちに広がる要求の磁場に引かれるように、きまって目にとまるある言葉。
 そうした、言葉の方から私たちのうちにある見えない要求の姿を知らせてくれる「キーワード」とも呼べる言葉が、誰の中にも、きらめいて、無意識のうちに溶け込んであるのではないでしょうか。
 私にとって、今、その言葉はなにかしら…
そんなことをふと自分に尋ねてみると、浮かんできたのは、
「散歩」
「リズム」
「手」
という言葉たちの輪郭。

 散歩。リズム。手。
 これらの言葉。こうして並べるだけで、心が弾みだして、幸せな心地が胸のうちに広がります。
 かつては、星、数字、物語。神話、花、暦。ことば、音、舌。空、海、職。東京…。
 そのときどきに、私というひとり人間の本能から起こる興味や関心をかたどるキーワードがありました。

 なかでも、今日に至るまで、一番長く付き合ってきたキーワードは「心」、「からだ」、「気」という言葉の一群だったようにも思います。
 今でもこの言葉の入った本のタイトルや紙面の見出し、文章が目に入ったときには、手を伸ばさずにはいられません。
 これらの言葉とは、そうしようと思ってしていたわけではありませんが、プライベートと仕事、それぞれの場で、違った対し方で関係を築いてきました。

 健康について学ぶ。その純粋な喜びの出どころが、趣味から仕事へと色合いが塗り変わってゆくなかで、無意識から意識へと、趣味の部屋から仕事部屋へと、いっときは、覚悟に運ばれて引っ越しをした言葉たちでもあります。 
 プライベートでは、いつもきまって心惹かれる言葉として、親しみ、味わい、楽しむ。
 一方、仕事のうえでは、「キーワード」として置かれる空間から、より身近で日常と切り離せない仕事の場に降り立った、先輩であり、仲間のような「心」、「からだ」、「気」の存在。
 就職していた病院を辞めて、整体師として独立し、自分の一生の仕事として整体を育んでゆこうと心に決めたときから、「心」、「からだ」、「気」という言葉は、今をただのびのびと愉しむ時間のアイテムから、正しく知ってこそ付き合える、それでいて、知らなくては「整体」という仕事を誤る、そのためにも学び、知りつづける責任を負った、前向きな緊張をはらんで付き合う「必要」の存在へとなり変わっていました。
 
 心惹かれる言葉に長くふれ続けるなかで、あるいは、暮らし方が変わることで、自然と起こる「キーワード」の移動。その空いたスペースに、新たに芽を出す存在の言葉。
 かつては「心」、「からだ」、「気」という言葉たちに対してそうであったように、今は、「散歩」、「リズム」、「手」という言葉に、恋するように惹かれています。

 散歩。リズム。手。
効率だとかスピードというものを進んで手放したとき、自ずとそこに活きるいのちのダンス、そのかたち。あせって悩む世の中で、寛ぎとゆるしをもたらす働き、その姿。私の愛する整体を支える、その心地。

 散歩。リズム。手。
その大切を知り、そこからもたらされる恩恵を敬い、世界と喜びを分かち合っている人。
今、そんな人を、私は「先生」だと感じ、お慕いしています。
# by mille-ka | 2015-05-21 09:50 | 整体日和

風の音

2015年、まだ先のことと思っていたゴールデンウィークが、流れるように足もとを過ぎ去ろうとしている5月4日。
みなさま、いかがお過ごしでしょうか。
私は、と言いますと、ゴールデンウィーク中には、毎年、遠方からも整体を受けにお越しくださるみなさんとも整体の喜びを分かち合えて、ますますありがたい気持ちでいっぱいでいます。

5月を迎え、日に日に陽射しが強く明るくなってきましたね。
そんななかにあって、頬にあたる風はまだ暑さを帯びずに爽やかなまま。
風が気持ちいいな、なんだか「今日が今ここにある」という感じだな、なんて、このところ歩くからだに風を受けながら胸をときめかせていたら、今日の風は少し勢いがつきすぎたようで、部屋のなかにいてもヒューヒューと口笛のような風の音が聞こえてきました。
その音を耳に、整体を受けにお越しくださっていたTさんは「鈴虫の声かしら?」とおっしゃっていたほど、窓の外では風が鳴っていました。
夏の舞台も、この風によって運ばれ、少しずつ流れ込んできているようです。

前々回のおはなしのつづきをお伝えしようと思いながらも、先延ばしなって、お待たせしております…一日いちにちの新しい出会いと学びによって、これまで経験したことが深くつながって、感じ方もくわしくなり、感想の輪郭を更新しつづけている今日この頃です。
私自身の経験のまとめのためにも、整体師の眼を通したからだの景色をみなさんと共有するためにも、あらためてこの場でお話ししてゆきたいと思っています。
どうか、ゆっくりとお付き合いくださいませ。

今日は、満月。
帰り道、ピカピカの月を目に、頬に風を感じながら、遠回りをしていつまでも月と並んで歩き続けたい心地でいました。
今宵の空は、いつもより雲の多い様子。
明日のお天気が気になります。
残りのゴールデンウィーク。
カレンダー通りに休日を迎えられるかたも、そうでないかたも、ときめきの多い、ふれる世界と喜びを分かち合える毎日とおからだでありますように。
# by mille-ka | 2015-05-04 23:55 | たんぽぽ考

「REFLEXION 石と銀の装身具展」本日ぜひ

先日、仕事のあいまにご近所のギャラリー、ラ・ロンダジルさんにうかがいました。
本日まで、宮本紀子さんの手から生まれた、素敵なアクセサリーに出会えます。
宮本さんとは、大阪の整体と暮らしのギャラリーnaraのタカノさんから、整体をお任せいただく大切なご縁をいただきました。

石とシルバーの作品、一点一点に宿る輝き。静かで安らかな佇まい。
宮本さんの手のお仕事。感激しました。
(最終日のお知らせとなりましてごめんなさい…を胸に)、みなさまにも宮本さんのアクセサリーとの素敵なご縁がありますように。
朝から雨のこんな静かな日にこそ、宮本さんの作品の待っている豊かな空間へとぜひお出かけくださいませ。

a0144052_9102726.jpg

DMもとっても素敵!
a0144052_9102878.jpg

# by mille-ka | 2015-04-11 09:00 | たんぽぽ考

からだの船 1

私というのは、チャンスの船に飛び乗る反射神経だけはいいのだな、と自分でも半ばあきれながら、半ば感心して思うことがあります。
目の前にあらわれた船に考えるよりも先に飛び乗って、決意は後付け。必要なものは、現地調達。
思えば、学生の頃から、不意に足もとに浮かんだ興味の小舟に反射的に飛び乗って、「後悔は死んでからする」、そんな誓いのような思いを胸のうちで握り、考えるよりもからだのままに、自分で自分を運びながら未知の世界への扉を開き、出会いの海原を渡ってゆくことの連続だったようにも思います。

そうして迎えた今。
最近、立て続けに二隻の船に飛び乗りました。
一隻は、前回にもお話しした一週間の断食。
もう一隻は、先週末に名古屋で開かれたサティシュ・クマールさんの講演会です。

断食は、まったく唐突なスタートでした。
やってみよう、と決めたのは実行前夜。その日、B&Bという下北沢にある本屋さんで開かれたトークイベント(「いのちとゆらぎ…生と死の往還」と題された、生物学者の池田清彦さんと精神科医の春日武彦さんによる対談です)にうかがった折、帰り際に視線を送った本棚から『修道院の断食』(ベンハルト・ミュラー著、創元社)というタイトルが目にとまりました。
ふと本を引き抜いて、そのまま引き寄せられるようにして迷わず購入したその本を、帰りの電車のなかでパラパラと読み通しました。
こうして、今、この本に出会ったのも、縁とタイミングというもの。断食、明日からやってみよう。出会ったばかりの本を前に、電車のなかで、自然と決定。
ちょうど、いつもなら常備している果物もヨーグルトや納豆もおそろいで冷蔵庫から姿をなくし、今夜買って帰らなくちゃな、と思っていた矢先のことでした。
今買わなければひとまず明日の朝は食べるものがないことだし、断食の準備は整っている、と断食の精のささやきが聞こえたようにも思えました。

断食一日目にあたる翌日の夜には、前々から美容室にエクステをつける予約を入れていた、というタイミングでもありました。
これまでの経験上、断食中にしんどいことのひとつは、眠るまでの時間にひとり、空腹をもてあます長い夜のひとときだと知っていました。
美容室に行けば夜も短くなるし、ヘアスタイルが変われば気分転換にもなって空腹もまぎれるだろう、と思ったのです。
「やっぱり、明日からやるしかない」。

そうして迎えた断食初日の夜には、ヘアスタイルは変わっても変わらずに横たわる空腹感を抱えながら、日記にこんな言葉を書き付けていました。
「断食一日目。まったく唐突なスタート。よっと勢い飛び乗った船によって運ばれ、新しい島にたどり着いたのかまだ船上か、そんな今。でも、きっと、断食をはじめることになった今日という日を迎える準備が完璧に整っての今、この日、この必然のスタート。そんな風にも思えてくる」。

もともと美容室の予約を入れていたのですから、無意識にもからだのかたちを更新したい、変わりたい、という要求がからだのなかにあったのでしょう。

(つづきはまた)
# by mille-ka | 2015-04-04 09:38 | 整体日和

桜もいよいよ

桜の花が枝先にはらりはらりと踊りはじめたかと思えば、五分咲き、七分咲き…と日を追うごとに、青空を覆う桜の枝々もにぎやかになってまいりました。
今の時期、桜の木の下を通ると、なんだか祝福されているような、喜ばしい華やかな心地がしてきます。

三月のなかで迎える土曜日も、今日が最後となりましたね。
みなさんはいかがお過ごしでしょうか。

私は、と言えば、春分の日をはさんで七日間、断食をしました。
二日ほどの断食はこれまで何度か経験したことがあるのですが、七日間となると、二日間のそれとはまったく違った景色に出会える、豊かで、気づきと喜びに充ちた一日いちにちでした。

今もまだ、断食中の旅の景色と心地を胸のうちで熟成しながら、道のつづきを歩んでいるところですが、これから少しずつでも、七日間のうちで感じたこと、気づいたことをご報告していければと思っています。

先ほど、外堀通りを歩いていたら、桜を見上げて笑顔をかわしあっている人たちをたくさん見かけました。
週末がお天気だといっそう嬉しいですね。
今日もみなさんにとって、素敵な出会いと喜びに満ちた一日でありますように。
# by mille-ka | 2015-03-28 10:00 | たんぽぽ考

春つれづれ

「おはようございます。天気予報でやたらと今日は暖かいと言っているので、思い切って春コートとスカーフにしました」
今朝子どもたちに届いた、母からのメールです。
春への装いのシフト、気持ちも軽やかになりますよね、と全員(母、兄、義理のお姉さん、妹)宛に早速返信。すると、お姉さんから、甥っ子の笑顔満開の写真と一緒に、桜の咲く頃に千葉の(ヒシカリの)両親宅に帰省しようかなと考えています、とのお返事が。
それではお日にち合わせましょう、と朝から会話が弾みました。

季節の変わり目の今の時期、冬の最後尾と春の先頭が行きつ戻りつ。三寒四温とは言い得て妙だとつくづく思います。
ただ、もう、二寒五温か…母が春のコートの装いに誘われたように、今日はぐっと暖かくなり、寒さのとげはすっかりなくなって、空気もいちだんとやわらかくうるんでいました。

母からメールが届く前のこと。
朝起きぬけに窓を開けたとき、一番に飛び込んできたのは、今までとは違ったその匂いでした。今年はじめて出会う、新しい季節到来の知らせをのせた外の匂い。
ふわりとむわりとのあわいに漂う外気の弾力に鼻がふれ、「あ、この匂い、知っている」。
そんな声とともに脳裏に立ち現れたのは、昔通っていた小学校の校庭のはじで構えていた、晴れた日の、水の張られる前のプールの映像でした。
春先に立ちのぼる土の匂い、だけではない、小学生のときに目にした水色の肌をさらしたプールの絵に結びつく「なにか」。今朝の外の空気に含まれた、匂いとともにあるその微妙な「なにか」を嗅覚が感じ取って、記憶のなかの映像を呼び起こしたのでしょう。
でも、なぜ、プール。そこにあった湿度が同じだったのかしら、と今も不思議に思えてきます。

今朝の春の空気の匂い。小学校のプールの映像。そのふたつを貫通して、にじみ出るなつかしさの感触。
今日目にした景色も、今日ふれた空気とともにからだに保存されて、この先どこかでなつかしく思い出されることがあるのでしょうか。

【☆】
ピースの又吉直樹さんの書かれた新刊『火花』(文藝春秋)、発売日の朝に買いました。
素晴らしい本です。
「漫才師」に出会い、つかまり、結ばれた人とひととの生き様が、熱さをたたえて静かに描かれています。
ページをめくるたび、胸の奥をつかまれて切なくなったり、笑いがこみ上げてきたり、背中を撫でられたり…自分という人間にぶつかってくるやわらかくて張りのある世界を閉じこめて広がる、そんな一冊。
本のなかに流れる愛情と眼差し、情動にうたれます。
前回、本の感想めいたものをご紹介しましたが、あとから読み返して自分の書いたもののお粗末さに落ち着かない気持ちになり、逆にご本に対して失礼なことをしているのではないかとも思えて胸が苦しく、いったん取り下げました。

人間。「師」のつく職業。声。
これらについてこれまで私の考えてきたことが、又吉さんの『火花』を読んでよりいっそう浮き彫りになった思いでいます。
感想にかえて、またあらためてこの場をお借りしてお伝えできるよう、腰を入れてもうしばらく問うてゆきます。
# by mille-ka | 2015-03-17 23:55 | 四季の彩