月刊 茶句里 SAKURI

sakuri.exblog.jp
ブログトップ | ログイン

カテゴリ:子供以上大人未満( 30 )

夜、実家の母に倣って、部屋の整頓に取り掛かった。
整理整頓とは、単に物の移動を言うのではなくて、余計なものは捨てて全体を整えることなのだと、以前に読んだ美容家のかたが書かれた本の中のことばを思い出した。

これまでもつくづくと思ってきたことだけれど、いかに自分が、「これは必要ない」ということを学ぶために、時間と労力と授業料とを支払ってきたことか。
過去の情熱の抜け殻とも言える本や物たちを手にとっては残したり、捨てたりしながら、シンとした気持ちの中で思っていた。
直に栄養として吸収される「必要なもの」を学ぶことと同じだけの時間と労力と出費とを、「これは必要ない」ということを学ぶ対価として投資してきた。

もちろんすべて、良かれと思ってはじめたことではある。
必要かそうでないかということは、本気でチャレンジしてみなくてはわからないし、本気でチャレンジしたことは、結果によらず、その過程で育まれた心の体力とその間の日々の景色の味わいの方に喜びの甲斐がある。
恋愛と同じですね。

私の場合、大学に通いながら整体師として働きはじめた頃には、実は、メイクアップアーティストになりたいと思っていた。
思っていただけではなく、白状すると、当初は整体もできるメイクアップアーティストという立場を目指していた。
高校生の頃、お世話になっていた美容院のスタッフのかたに声をかけられたことをきっかけに、(今より体重は10キロ減であったし、本番の一週間前からはさらに体重を落としたりもして)美容院主催のヘアーショーのモデル役になったり、美容の専門学校に通っていた友だちのお姉さんに頼まれて、専門学校の学園祭で学生のかたが手作りをされた衣装のドレスを着て奇抜なメイクと髪型で舞台上を歩くだけの役をしたこともあった。
そこで知り合ったプロのモデルを目指す年上の友だちに普段の自分のメイクを誉めてもらったり、メイク方法を聞かれたりもしたことが嬉しくて、もともと好きだったメイクの研究に火がついた。
そのうち、高校の休み時間にはまわりの友だちからも頼まれてメイクをしてあげたり、友だちがオーディション用の写真を撮る前には、休みの日に友だちの家に出かけて、メイクをしてあげたりすることもあった。
大学に入ってからもメイクを頼まれることは変わらず、せっかくなら基礎から学んでもっとうまくなりたいという想いが湧いて、国際メイクアップアーティストの資格が取れるという通信講座でも習いはじめることに。
その分、友人たちから誘われた旅行も、卒業旅行さえも断念して、働いて得たお金のほとんどを、整体の勉強会やメイクの講習会費に費やした。デートも後回しで、整体とメイク、それぞれの仕事と勉強会とに通いつめた。

それでも結局、メイクアップアーティストの道に進むことを断念して整体に専念することに決めたのは、今でもそうなのだけど、私自身がファンデーションを使わないので「ベースメイクの重要性」が実感をもって共感できないことと、当時、この人のもとで働きたいと強烈に思っていたメークアップアーティストの女性が、指定された年月以上の美容師経験のある人でないとスタッフとして採用しない方針をとっていたから。
その時には、そのかたが整体を受けることが好きだということを本で読んで知ってもいたので、いつかは必ず、憧れをもらった人からも会いたいと思われる整体師になって、整体を通して喜ばれるように頑張ろうと、胸に誓った。
あの時、メイクの道にも「好き」という地点からプロになることを見据えてチャレンジし、自分の「やってみたい」に素直に従って目指して行動した自分がいたからこそ、未練なくひとつの夢を卒業できた今があるのだと思う。

その時々で自分の「気になる」という声に正直に従って、行動に移して取りかかってみなければ、その先の「今」の中で差し出された答への納得も、その時に抱く自分の想いも、曖昧なものになってしまう。
たとえ、結果が思い描いたものと違うものであろうとも、目の前の現実が答であることには変わりない。

かつての情熱の残骸を手にとっては捨てながら、どれも無駄なことではなかったのだと、たしかに思える。

「精神活動のあらゆる分野において、真に優秀な人間とは、常に何事もただでは与えられず、すべては代償を払って築きあげなければならぬことを、一番よく知っているもののことをいうのである」

久しぶりに友だちから恋愛の相談を受けたあと、部屋を片付けながら、こんなことばが浮かんできた。
ヴァレリイのことばです。
恋愛にも同じことが言えそう。
ある人にとっては仕事が恋愛であり、ある人にとっては恋愛が仕事のこともある。
どちらも大切なことには変わりない。

本気というのは、熱くて軽くて純粋なもの。
はじめに中途半端な遠慮があるというのが、重くてむしろ図々しいことだと思っています。
by mille-ka | 2012-05-04 02:08 | 子供以上大人未満

人はふとしたことで落ち込みます。
からだはちょっとした変化にも反応します。

人もからだも、変化に伴う内部の抵抗を経過しながら、自然な流れに順応していくものです。

一日いちにちの変化を重ねながら、一年のなかで季節はゆったり巡ります。
一年いちねん、四季を繰り返し、小さな変化に揺さぶられながらも、大きな流れが私たちをいつも「安心」という場所に運びつづけているようです。
からだも人も、目の前の出来事や結果が「今」という時点の百パーセントととして、たしかに、表面を覆っているようにも見えますが、時の流れはとどまることはありません。

目の前の現象を受け止めながら、その全体を包み込む大きな流れを信じて、せめて、人に優しく、自然に優しく、最も身近な自然とも言えるからだに優しく、感謝をもって過ごすことを心掛けるよりほかありません。

支えて、支えられて、そうして人は、どうしようもなく生きています。

“何か”に気付いて、立ち止まって、歩きはじめて、人に出会って、駆け出して、ぶつかって、感動して、また気が付いて、立ち止まって…。

夢と現実は裏表。
夢から覚めるでもなく、現実から逃げるでもなく、ただ「安心」のなかでの繰り返し。
生きることも死ぬことも、なにが目的ということはわかりませんが、今日一日の中にひとつでも感動できる自分があれば、それが健康であり幸せなのだと思います。
by mille-ka | 2012-04-28 08:48 | 子供以上大人未満

「その先」の雑感

「やめることは簡単だ、続ける方が難しい」。
そう言って間違いがなさそうにも、聞こえる。

「やめることは簡単だ、続ける方が難しい」。
確かにそうだ。だけど。
年齢を重ねるにつれ、視野も広がり、見とおす景色が変わってくると。
「続ける方が簡単だ。やめてから、またはじめる方が難しい」。
そんな声が聞こえてくる。

自分という道の中で山を越える経験を重ねるごとに、自分の道には「はい、ここまで」はなく、「その先」がある、ということが当然のこととしてわかってくる。
ひとつのことをやめても、生きている限り、「その先」がある。
「その先」の道を行くのは、他ならぬ「この自分」である。
「その先」でナニモシナイということはありえないのだから、今までやってきたことを続けるかどうか迷っている時には、とりあえず、続けた方が得策である。

走りながら考える。
立ち止まってから走り出す、もいいけれど、また走り出す、の方が、難しい。
実際、必要な時には、迷う余地なく止まっている。

意味のないことなんてない、という、以前はありふれた言葉として気にもとめてこなかった言葉が、今ではありふれた言葉以上の重みをもって響いてくる。
意味なんてない、ということと、意味のないことなんてない、ということとが、同じコインの表か裏かの模様の違いにすぎない、ということもわかってくる。

「その先」を更新しつづけて、はじめて出会える景色ばかり。
by mille-ka | 2012-02-27 00:26 | 子供以上大人未満

いつか

静かな夜。
窓の外の遠くからは、風に押されて流れる雲の音が聴こえてきます。

今日という一日のはじまりとおわりとに頭の中に浮かぶこと、気分、自分とがどれも異なっていて、一日を過ごしたことが実感されます。

みなさんにとってはどんな一日でしたでしょうか?

今朝、ふと、思い出していたこと。
それは、何年か前に、「優しくなるにはどうすればいいか」という質問を、小さなお子さんのいらっしゃるお母さまからされた時のこと。
「自分の子供に対して辛辣なことを言われても、言い返せない。あとから悔しい思いをして考えこんでしまう。どうしたら、そんな時でも相手を許せるような優しい人間になれるのか」、という質問でした。

当時の私にとっては、優しい人、というのはイコール「強い人」でした。

「私は、優しい人と優しくない人とがいるんじゃないと思う。
人は、強いか弱いかなんだと思っています。本当に強い人しか優しくなれない。それでいて、強い人は必ず優しい。
言葉と態度だけで強そうに見えても優しさを感じられない人は、やっぱり、弱い人なんだと思います。
私は昔、優しそうに見えて弱いだけの年上の人たちの、相手によって変わる態度の変化を目の当たりにして傷ついてきた経験がありますから、優しくなんてなりたくないと思ってきました。
理不尽なことに怒れる人の方を尊敬しています。
自分が傷つきたくないために優しい人になりたいと思うなら、それはずるい考えなんじゃないですか。
優しくなりたいなら、強くなるしかないと思います。強くなるには、まずは優しさをもらうことばかり考えないことだと思います」。

そんなことを口にしていました。
ずいぶん生意気ですね。

からだの状態は、気候や骨盤の開閉のリズム、食事や人間関係を含む環境の変化、年齢、ストレス状態によって刻々と変わります。
同じ質問をされても、同じ相談をうけても、受け手のからだの状況によって、その時々に反応が違うのはあたり前のことなのでしょう。

朝、肩をおとす友人に優しい言葉ひとつかけられない自分に落胆して、強い弱いは頭になくて、ただ、「優しくなりたい」。そう思っていました。
思ったあとにはきまって、「優しくなりたい」なんて思わないほど整体が、うまくなりたい、と思います。

みなさんは、優しく、なりたいですか?

“なりたいと思えば、なれますよ”。

今、あの時と同じ質問を受けたなら、そう答えられると思います。
by mille-ka | 2012-02-23 22:43 | 子供以上大人未満

チューリップの花

チューリップの花を買った。
チューリップの花の佇まいは、実にすがすがしい。
大きな葉を従えて、すっくと真っ直ぐ、しなやかに、背筋を伸ばして立っている。

いつだったか、気持ちの晴れぬ朝があった。
その前日に、自分の身の丈を思い知ってガッカリするような、自分の未熟さと無力さとにやりきれなくなるような出来事があり、朝から、気持ちがふさがっていたのである。

ぐずぐずと一日を過ごしていた。
夕方になり、取り込んだ洗濯物をたたもうとしたとき。乾いた洋服やタオルなどが積み重ねられた山を横に、少し、背筋をしゃんとさせて座ってみた。
背筋を伸ばして、タオルを一枚、たたんでいると、不意に涙がこぼれてきた。

“ああ、そうか。泣きたかったのか”。
ぽろぽろと涙をこぼしながら、意外な事態に驚くような気持ちと、どこか安心した気持ちとが、心のうちに同居していた。

“底にいる時よりも、底から立ち直ろうとする時に、涙は流れるものなんだなあ”。
その時のことを後から思い出した時、そんな感想が浮かんできた。

凛として真っ直ぐに立つチューリップの花の姿を見ていると、たくさんの、立ち直りつづけてきた花たちの姿までもが思い出されるようである。
by mille-ka | 2012-02-22 00:27 | 子供以上大人未満

ひとやすみ

何につけ、慣れてきた頃が危険である。
仕事においても、人間関係においても、言葉を使うことにおいても、そうである。
プロや一流の人というのは、どんなに腕や成果をあげようとも、その分野の力量において慣れることのない人のことを言うのではないだろうか。と言うよりも、慣れたうえで、ほどよい緊張感をもてる人、なのだろう。その全体がその人自身の仕事に対する美意識のあらわれとなっている。

人は往々にして、慣れてくると調子にのる。
「調子にのる」という言葉にしても、それが当人からしてみれば気持ちいい状態を指すのに対し、はたから見た場合には、はしたないという意味が立ちのぼりそうなところがおもしろい。

どのみち、調子にのると、人は失敗しやすくなる。
「人間は得意なところで誤りますよね」と、小林秀雄は『信ずることと考えること』という講演会の中で、質問に答えて言っている。
「自分のつたないところでは失敗しないですよ、なかなか人間は。だけど、得意なところで思わぬ失敗をして不幸になりますね」。

慣れてきて得意にならないためには、自分の中でその技量や目標、美意識のハードルを上げていくしかない。そうでないと、進歩もないうえ、失敗をして信用を落とすことにもなりかねない。

慣れないためのヒケツは、「待つこと」にあると私は思う。
反対に、待つことができなくなっている時には、慣れてきた証拠である。そんな時こそ、あえて意識的に立ち止まる必要がある。気付けたら、の話ではあるけれど。

昨日、一昨日の自分のブログを振り返り、慣れてきたゆえの長文がおそろしかった。
平常心。と、ひとやすみ。
ヒケツ、秘訣。
by mille-ka | 2012-02-16 22:04 | 子供以上大人未満

おいしいひととき、自分の仕事。

人を羨ましく思う時は、自分がやることをやっていない時だ。そう思う。

去年の暮れ。
高校時代からの友だちが、突然のお誘いでごめんね、という前置きのあと、「今日、神楽坂にひとりでワインでも飲みに行こうと思ってるんだけど、よかったら一緒にどう?」と、連絡をくれた。

おととしの春、移転後はじめてお店に遊びに来てくれた妹から、「お姉ちゃんは昔ナイフのようにとがってたけど、ズイブンまるくなったよね」と言われて、昔の自分は身近な人の目にはそんな印象で映っていたのか、と驚きながらもおかしかったのだけど、誘いをくれた彼女は、そのとがっていたらしい時代も、冷え切っていた時期も、自分勝手な態度ばかりで過ごしてきた私を見守りつづけてくれて、今でもなお付き合いのある、かけがえのない友だちである。
卒業以来、年に数回、節目ふしめで飲み交わすことはあったのだけど、当日の陽の傾く頃あいに誘いがあるのは、はじめてのこと。

「ちょうど夕方にいらっしゃるはずだったお客さまからさっきお電話があって、急な事情でお日にちが変更になって、本当に今あいたとこなの!大丈夫!」。

本当に、そうだったのだ。
当日にご予約が変更になることはめったにないことで、そうなった理由のかけらがここにあった、と胸の中にキラリと浮かぶ。
OKの返事をしたあと、「実はわたし、今日が最終出社日なの。ひとりで過ごそうかと思ってたんだけど、チカと話したくなって。誘ってよかった」との返信。

心の中で飛び跳ねた。
彼女が勤めてきた会社を年内に辞めて、来年からワインとチーズの勉強のために海外へ行くことは聞いていた。
だけどまさか、今日がその新しい道へ踏み出す結婚前夜の大切な日だったなんて。
それを先に言って断りづらくさせないように、という気づかいが、やはり彼女の品である。

ああ、よかった。
今晩が空いていて。急な誘いを歓迎できる“疲れてないからだ”があって。
ヒヤヒヤとホッとしながら、いそいそと、前から行ってみたいと思っていた神楽坂のニューフェイスなお店を予約。お疲れさま会の段取りをすすめる。

それにしても、嬉しかった。
「ふと思い出される」ということが、私にとってはたまらなく嬉しいことである。
整体師としても、何より嬉しく思えることのひとつは、疲れたな、とからだの声が聞こえた時に、ふと、ここで整体が待っていることを思い出してもらえること。

お客さまからご紹介をいただいていて、前から気になっていたマンションの一室にあるイタリアンレストラン。
こんな大切な日に、お邪魔させていただけるなんて。

扉を開ける。
ああ、いいかんじ。
お料理は、“いい手”からコトコトと丁寧にやさしさが込められてつくられていて、しみじみとおいしい。
店内の空間は、ほっこりとしたぬくもり漂い、まるでコテージの一室でいただいているようなこころの寛ぎが感じられる。からだもゆるむ。

ワインが一本空いたとき、彼女がもらした。
「会社辞めて海外に行くって知るとさ、みんな、いいないいなって言うんだよ」

「ふーん。やーね」

「うん。いいなって言うんだったら、自分もそうすればいいじゃんって言いたいけど、そうするつもりは、ないんだろうね」

「そだね、きっと。ひとを羨ましがる人ってさ。自分にもひとにも無責任なんだろうね。
したいことをするためにさ、責任と一緒にリスクをとってるってことを、そうしようともしてない人にはわからないんだろうね」

「うーん。仕事を辞めてこれから好きなことをするって言っても、不安がある、ってわけじゃないけど、不安がないはず、ないのにね」

「だねー。でもさ、そおゆうの、わかってるから、不満があっても今の場所から抜けられないってこともあるんだろうね。
しようとしてないことをさ、デキナイってことばでおさめて、でも人がしたいことをしてるのを見たら、いいなって、つい、出てきちゃうんだろうね」

「うん…なんか…いいないいなって言われて、ちょっと疲れた。
好きのために海外に行くは行くけど、こっちだって、これからの仕事のことだって、この先どうしていくか、とか何も決まってないんだよ、って、思うけど、言いたくもないし。
だから今日、ひとりで過ごそうかと思ってたんだけど。
ありがとう、急だったのに」

いいよいいよー、全然。嬉しいよ、こんな大切な日に、思い出してもらえて。一緒に過ごせて。

「そう言えば、私も病院を辞める時、いいないいなーって言われたな。
先輩がさ、私もカフェでもやろっかな、ってね。言ってたよ。やればいいじゃないですか、もったいない。って、言っちゃったな。やりたいことがわかってるなら、やればいいのに。本当にそう思うんだよ。
でも、苦笑い、されるよね」

「そだねぇ」。

生きているうちにしか、リスクなんてとれないのに。この世からいなくなってしまったら、リスクもなにもなくなるのに。生の灯が消えたときには、無難でしか、なくなるのに。どうして生きているうちから、死んでからどこまでもつづく無難な道を、選ぼうとするんだろう。

安全は、生の先に誰にでも待っているのに、どうして今、この瞬間を、幻想でしかない足元の安全が崩壊することを恐れて、今ある生に遠慮して、不満を抱いて時間を過ごしているんだろう。

夢の中で空を飛ぶことをためらうように、今、やってみたいことがあるのに、その一歩を踏み出せなくさせる頭の中のブレーキは、新しい世界を味わうチャンスを、ひとつ、逃してしまうことにつながりかねない。

ただひとつの瞬間、ひとつのチャンスをつかむことが、その先の世界の景色を変えつづける。
瞬間瞬間の直感による選択を、ためらわずにつかみつづけることで、判断力も養われる。
どれもすべてが自分の選択。
行動力とは、直感に逆らわずに一歩を踏み出した瞬間からはじまる、一歩の連続。

「私は私のことしかわからないから、人のことは言えないけど、でも、やりたいけどできないって言うのは、私にとっては信じられないんだよな。
今は自分の他の仕事があるから、しない、じゃいけないのかな。
本当にやりたいのか、やりたくないのか。
やりたいなら、どうして、今、していないのか。
ちゃんと自分自身に聞いて、納得してないと、もったいないと思う。
できないなんて、あたり前なのにね。
あたり前のことは、理由にならないのにね」。

デキナイってゆうことが理由になるってゆう先入観をのけて、よくよく自分に聞いていけば、今がもっと充実して、自分で選んできた現実に納得できて、不満がなくなると思うだけどな。
なにより、今の仕事に対して失礼だよ。自分を支えてくれてる目の前の仕事に、感謝できていないなんて。

「自分がやること」。
それはただ、自分に聞くこと。人を見て羨ましいと思う前にまずは、自分に聞くこと。見たら、聞くこと。自分に聞いたら、前を、向くこと。

楽しくないけど、ラク。ラクじゃないけど、楽しい。
結局は、どんな過ごし方も、いい悪いではなくて、自分で選んだ価値観に合ったスタイルの違いにすぎない。

そんなことを言ったか、言わないか。
ことばの記憶はワインの中へ。

「だけどさ、こうやって今、飲みたい人と飲めて、お料理もワインもおいしくて、今が楽しいから、もういいよね」。
不安はあって、当然だもんね。でも、いいよね。進みたい方向を向くことを、あきらめなければ。そんな子供みたいな無邪気な自分が、自分の中に、いてくれればいいよね。それで時々、飲みたい人とお酒がおいしく飲めれば、言うことないよね。
本当の笑い声。

今日はバレンタイン。
ひとりでも多くの人に、心地よい時間が、あなたのご機嫌なからだから届きますように。
by mille-ka | 2012-02-14 09:57 | 子供以上大人未満

「神様のレシピ」

人は、自分が救われた方法でしか、人を救えない。ふと、そんなことを思っていました。
ひとり追いつめられた気持ちになった時、この先どうしていけばいいのかわからずに途方に暮れていた時、落ち込んで立ち上がれないかもしれないという不安に襲われた時、人は必ず、大切なものに出会って救われる。
私自身、そんな瞬間を繰り返しながら、今があります。
生きているからこそ繰り返せるのであって、悟りか死が訪れない限り、繰り返し繰り返し、新陳代謝。救われては生まれつづけるのでしょう。

伊坂幸太郎さんの小説、『オーデュボンの祈り』(新潮文庫、2003)に出てくる「神様のレシピ」という言葉がとても好き。
「未来は神様のレシピで決まる」。
どんな出来事も、どんな出会いも、「神様のレシピ」の中にあって、その材料は「おいしい人生」にむかって絶妙なタイミングで配置されている。
「神様のレシピにはとても多くの材料が並んでいて、贅沢です」。
今この瞬間も、どんな時も、「神様のレシピ」の中にある。
そんなことを、時折り心に浮かべながら安心しています。

自分を救ってくれた「大切なもの」。
それが、おいしいお料理だった人はおいしい料理を人に差し出し、言葉だった人は言葉を編みあげ、オシャレをすることだった人はオシャレを生み出し、手紙だった人は手紙を書き、音楽だった人は音楽を届け、スポーツだった人はスポーツで輝き、笑いだった人は人を笑わせ、恋人の存在だった人は自分もまた善きパートナーとなり、美しい景色だった人は自然を宿した瞳を持つことで、人それぞれに今、目の前にいる「かつての自分」たちを救っている。

悩むことの多かった人ほど救われる機会も多く、壁にぶつかってきた人ほど心の体力が養われている。
そうして、その方法と体力によって自分にふさわしい仕事を選び、そこにエネルギーを注ぐことで、選ばれた自分の役割を果たしている。

ともすれば人は、自分がおとしめられた方法で人をおとしめ、自分を悲しませた状況で人を悲しませてしまいかねません。
そうならないためにも、私たちは、自分を救ってくれた「大切なもの」に意識を向けるべきである。
何も特別に人を救おうだとか、導こうだとかと意識して動き回らなくとも、今すでにある目の前の仕事に集中し、心を込めて取り組むことで、その先の誰かの救いに自然とつながっている。そんなことを思います。

私の場合、その「大切なもの」が整体をすることで、もうひとつには、“輝く顔”でした。
そして何より、「強い大人」と「そばにいてくれた人」と「紹介」という、ありがたくてもったいないほどの存在と行為。
だから、自分もそうすることでしか目の前の人の力になれる方法がわからなくて、時々自分のやっていることはひとりよがりになってはいないかと気持ちが沈みそうにもなるのですが、この世には自分以外の人だらけなのだし、ひとそれぞれに方法が違うのだから、私の場合はこれでいいのだろう、とひとり合点して過ごしています。

人はなりたい存在に、必ずなれる。
その時に、「自分以外の誰か」になろうとするのではただの現実逃避になってしまいますが、「自分からはじまる自分」を生み出しつづけることで必ず目標は実現できる。
それだけは、信じています。

今の自分が生きている間に答え合わせができるとは限りませんが、答え合わせをするためにも、まずは自分の答えを出す行動を。
そうやって、人は毎日生まれつづけているのだと思います。
by mille-ka | 2012-01-27 09:58 | 子供以上大人未満

明日は

今宵の夜空に月が顔を出していなかったのは、雲に隠れていたからではありません。
明日は新月。
お月さま自体の姿があらわれていなかったんですね。

新月の日は、はじまりにはもってこいのタイミング。
満月までの14日の間に取り組みたいことや目標を書き留めるといいそうです。

少し前までは、こおゆう話は、“寂しがりや”のすることだと冷ややかに思っている自分がいました。
“何にも依存も影響もされないで、私は私だけのタイミングで生きていく”。

それでも、先人の言い伝えに、それこそ意味もわからないままお経を繰り返し音読するように、素直に従うことを楽しめるようになったのは、これはきっと年の功。

やってみないとわからなかった味わいに気付けること。
新しい自分に出会うこと。
年を重ねる喜びを知る喜び。

「成熟するにつれて人はますます若くなる。すべての人に当てはまるとはいえないけれど、私の場合はとにかくその通りなのだ」。
そう言った、ヘルマン・ヘッセの声が聴こえてくるようです。
by mille-ka | 2012-01-22 22:23 | 子供以上大人未満

三姉妹

これまでに、人に一番プレゼントしてきた本と言えば、佐藤雅彦さんの『プチ哲学』。
本の表紙に、「文と絵 佐藤雅彦」と書かれているように、「文と絵」の本で、何度も読み返したくなる何度も読み返してきた、大好きな本。

一番はじめの文と絵のタイトルは、「二匹の小魚」。
二匹の小魚が互いに向き合っているイラストの下には、こんな文が添えられています。

「南の海の底に
小さな魚の恋人たちが
おりました。
二匹はお互い
深く愛し合っていました。
━こんな広い海の中、
君に出会えて
なんて僕は幸せなんだ
━私もなんて
幸せなんでしょう

ところがある日のこと
二匹は運悪く
捕らえられてしまいました。
そして狭い狭い水槽に
入れられてしまいました。
━大好きな君と
いつも一緒にいられて
なんて僕は
幸せなんだ
━私もなんて
幸せなんでしょう

深く愛し合っている二匹の
小さな魚たちがおりました。」

ページをめくると、小さな解説。
冒頭には、「世の中には、環境が変わると価値が変わるものが多くあります」と、佐藤さん。
解説の最後には、こうおっしゃいます。
「しかし、この小魚たちのように、自分の中に不変なものを持つのもかっこいいことであります」。

今日は心から尊敬するトモコさんとマキさんと、待ちに待った新年会ランチ。
話の成り行きで、ふと、この小魚の話が思い出されてイラストを描きながら話していました。

「不変なもの」。
それを確認し合えた大切なひととき。
「かっこいいこと」。
素直に「かっこいいこと」をかっこいいこととしてあたり前に好きだと思える今が、たまらなく幸せ。
好きなものを好きでいつづけたい。
飽きてしまいたくないものがある。

生来飽きっぽい私は、ある時まで、“いつか自分が、今は大好きでステキだと思っていることに対して、それでもいつかは飽きてしまうのではないか”という、影のようにつきまとう恐怖がありました。
だから、「変わらずにそこにあるもの」に飽きないために、他のことにも興味を持ちながら、楽しさを分散させながら、自分が変わりつづけて、「変わらずにそこにあるもの」と付き合いつづけていかなくちゃ、自分の性質に負けて素敵な相手に飽きてしまってはもったない、と自分を監督するように意識的にあれこれと動き回っていたのですが、いつの間にか、「いつか」への不安と恐れとがさっぱりなくなっていました。

杞憂なりにも工夫しながら自分の信じたい対象と長く付き合うなかで、自分が好きになった「変わらずにそこにあるもの」の魅力が、自分のうちからなくなる性質のものではないことがわかってきたことと、「今」この瞬間の中に、「変わらずにそこにあるもの」があれば、もうそれで充分なのだ、ということに安心できるようになったからなのだと思います。

“つながっていない人はいない”。
それだけでもう、充分なのです。
by mille-ka | 2012-01-21 21:57 | 子供以上大人未満