月刊 茶句里 SAKURI

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カテゴリ:曇り時々晴れ( 58 )

合掌

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by mille-ka | 2016-05-05 23:50 | 曇り時々晴れ

春の日

 疲れたとき、心がうらさびしく感じられるときには、好きな人の「声」を聴きます。
 音楽、落語、朗読、対談や講演会の音源…
 ごまかしのない人の粋な声を聴いていると、心が安らいで、からだがゆるんでゆくのが感じられます。
 なにをあんなに落ち込んでいたのだろう。いったいどうして泣きたい気持ちになっていたのか。話の内容と一体となって流れるその人の「声」を聴いていると、声にひそむ情動、話し手のいのちの躍動とも言える弾みがマッサージとなるのでしょうか。しぼんでいた心がふくらんで、知らず知らずのうちにこわばってかたく結ばれていた心身がふわりとほどけてゆくのが感じられる。そうして、さっきまでの息苦しさが愛しく慰めに感じられるほど、いつのまにか、明るい心地に浮かんでいます。

 人の声は、波音と同じなんだ。
 解剖学者であり自然哲学者とも呼ばれる三木成夫さんの声がとりわけ好きで、折にふれて三木さんの講演の音源を聴いているうちに、ふと、そんなことを思いました。
 三木成夫さんは、香川県丸亀市の出身。同郷の人だと知ったときには、胸のうちで飛び跳ねるように、嬉しく感じられました。
 三木さんも、きっと、瀬戸内海の波音を聴いていらっしゃったんだ。三木さんのこの声。そう言えば、瀬戸内海の波音の響きが広がっている。
 三木さんの声を聴きながら、私は幼い頃によく遊んだ海辺の波間にたゆたっているのではないか。そう思いました。だから、お声を聴いているだけで、こんなにも心が寛いで、からだがほぐれてゆくんだ。おおげさに聞こえるかもしれませんが、そのとき、私ははっとしながら、妙に腑に落ちたのです。
 人のからだを育んでいるのは、過ごしてきた土地の土、水、風。それから、ふれてきた音の記憶。
 人の声の底には、その人のからだを行き交った土壌の歴史が凝縮されて流れているように思います。

 今日、整体の時間の前に、友人と神奈川県の三浦の地を訪ねました。
 はじめての場所なのになつかしさが充ちてくるのびやかな時間。空の青さ、海のきらめきにからだが溶け込む心地に誘われる眼前の広々とした景色。
 サックス奏者の清水さんが海岸沿いの素敵な場所をご案内くださって、心洗われる時間をいただきました。
 いちにち、清水さんのお声が素晴らしくて、耳の奥で故郷の波音が重なりました。目の前に広がる海から届く波音を聴きながら、なつかしい人の声が浮かんできました。

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これは誤って撮っていた写真ですが…なんだか春めいて、良
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今日は、旧暦では新年のはじまり。三浦の野菜直売所でいただいた、「橙」をお風呂に浮かべて良い一年を願います☆
by mille-ka | 2016-02-08 23:45 | 曇り時々晴れ

抵抗力としての健康

 それは花々が咲きそめる早春の頃。ひとりの女の子が庭をのんびり歩いていたら、木の枝から繭がぶらさがっていました。
 どうやら、そろそろ蝶が出てくる頃合いです。「これは面白そう」。それから毎日、女の子は繭の様子を見にいきました。どんなことが起きるのか、絶対に見逃したくなかったのです。
 ある日、繭にかすかな裂け目ができていました。のぞきこんでみると、蝶は「早く自由になりたい、新しい世界に出ていきたい」と必死にもがいています。女の子は夢中でそれを見守りました。でも蝶はなかなか出てきません。やがて、動きを止めてしまいました。あらんかぎりの力でがんばってみたけれど、「もうこれ以上は無理」とあきらめたように見えます。
 そこで女の子は決心しました。その邪魔っけな繭を、ちょっとずつはがしていったのです。ついに蝶が全身を現しました。「すごい、こんどこそ羽を広げるのね」。でも、女の子のワクワクは、ガッカリに変わってしまいました。だって、蝶は、あいかわらず動けないまま…。
 やっとそのとき、女の子には事の次第が分かってきました。蝶がちゃんと飛べるようになるには、ああやって必死にもがくことが必要だった。本当は、繭から逃げ出そうとしていたんじゃなく…あれが、自然の神秘によって羽を強くする方法だったのです。
「そうか、あの蝶はきっと、一緒にがんばってくれた繭に感謝するはずだったのね」と女の子は思いました。              
—作者不詳

(『TREASURE YOURSELF』 ミランダ・カー、2011年)

 3年ほど前、友人がミランダ・カーの本をプレゼントしてくれました。その本の冒頭に紹介されていたのが、このお話です。今でも、ふとしたときに思い出される、大切な、大好きなお話です。
 
 このなかに登場する女の子のように、整体師として、からだにおせっかいをするのではいけない。深くうなずきながら、そう思いました。
 目の前に横たわる、日々闘いのなかにあるおからだの、内側からの気力と生命力を養うお手伝いをするのが、整体なのだ。その自覚をもたらしてくれるお話として、今も大事に胸にしまってあります。

 もう一方では、自分の未熟さに落ち込んだり、不甲斐なさに苦しくなったりしたときに、今は蝶のように、自分の羽を強くするとき。そう自分自身を励まし、やるせない現実をまるごと受けとめる支えとなってくれるお話として、心のポケットのなかに、お守りのように入れてあります。

 生きている限り、からだの病気も人生のつまずきも、避けては通れないのが現実です。
 だからこそ、病気によってもたらされる「生命の自覚」を、失敗によって気づかされる「生き方の自覚」を、静かに丁寧に受けとめて、乗り越えつづけるしかありません。

 逆境をチャンスに、「抵抗力としての健康」を養ってゆこう。
 そんな声が、どこかからともなく聴こえてくる夜があります。
by mille-ka | 2015-09-06 23:50 | 曇り時々晴れ

心ひとつ

 曇り時々雨、雨時々曇り。ここ数日、曇り空と雨降りのお天気の繰り返しですね。太陽を恋しく思う気持ちをふくらませつつ、新しい月のはじまりを迎えました。

 8月のおしまいの日、仕事のあとに、久々に髪を短く切っていただきました。
 仕事中はまとめていても、おろせば肩にかかる長さにまで伸びていた髪は、すっきり、ショートに。気持ちまで掃き清められる思いで、翌朝、9月のはじまりとともに新しい朝を迎えました。

 そんな爽やかな気持ちに後押しされて、昨日は、仕事前の午前中、電車に乗って千駄木にある天然酵母のパン屋さん「パリットフワット」さんのもとへうかがいました。
 と言うのも、その前日、整体を受けにいらしてくださったナカムラさんからお福分けにいただいた「パリットフワット」のパンがとってもおいしくて、幸せな気持ちに満たされたから。

 ふんわり芳ばしいその香りから、サクッともちもちとしたその食感から、噛むほどに豊かなるその味から、この幸せと元気の源を共有したい大切な人のお顔が浮かんで、私からも大切な人にお福分けをと、昨日の今頃、傘を片手に駅へと向かっていました。
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 ナカムラさんからいただいたたくさんのパンも、写真に残す前にかじってしまったチョコレートクッキーも、本当に、おいしかったです。(ありがとうございました!)
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 「お会いできて嬉しいです」。
 からだいっぱいに広がるこの思いが近すぎて、伝え忘れてしまうこの言葉。
 先月、大切な、かけがえのないお姉さまが旅立たれました。
 二日後にお会いするはずだった約束は、私が同じ場所へ旅立つときまで約束のままに。

 先月の後半は、心が思うままに思うこと、からだが感じるままに感じることを邪魔しないように、例えば、悲しさを胸の奥に押し込めたり、むなしさをからだの外のことでまぎらわさないように(日常の騒がしさに流されて「喪」の時間をないがしろにすると、あとから抑うつ状態がどっとやってくることを経験則として知っているので、)仕事に専念をして、あとは静かに過ごしていました。

 心弾むお時間も、あたたかいお心遣いも、いただくばかりで、お返ししきれなかった悔いが、胸にとどまっています。残されたこの悔いもまた、引き継がれた時間のなかで、優しくあることを諭してくれる最後の贈り物として、悔いは悔いのまま、感謝の種として受けとめてゆこうと、日々確認しています。

 「お会いできて嬉しかったです」。本当に。
 対面させていただいた最後の寝顔が、安らかで、静かで、清らかで、救われました。おからだを取り巻くお部屋全体の空気が、いつも見せてくださっていた笑顔そのままに、大きな明るさに包まれた、あたたかな雰囲気だったことに、今でも慰められ続けています。

 良い仕事をすること。
 どんな言葉で伝えるよりも、一日一日良い仕事をしようという心がけを持って生き続けてゆくことが、私にとっては、今一番伝えたい思いを届けられる手段に思えてなりません。
 今、一番伝えたい思い。
 それは、「あなたに、お会いできて嬉しいです」。

 あなたに、お会いできて嬉しいです。
 どんな仕事も、根っこでは、この言葉でつながっている。そう思います。
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 大阪のnaraさんから素敵なご縁をいただいて、先月整体にいらしてくださったFUKUさんからいただいた手作りのシフォンケーキ。
 以前からnaraさんのブログで拝見していて、食べてみたーいっと思っていたFUKUさんのシフォンケーキ。お名前のとおり、ふくふくと気持ちがやわらかく笑顔になるおいしさに、幸せをいただきました♪(ありがとうございました!)
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大阪にお邪魔するときには、FUKUさんのお店におうかがいすることもこれから楽しみのひとつに。
みなさまもお近くにお出でになる際には、ぜひ足を運ばれてみてください。
by mille-ka | 2015-09-02 10:00 | 曇り時々晴れ

「世界はうつくしいと」

 五月も折り返しを迎えようとしていた頃、詩人の長田弘さんが、月の初めに亡くなられたことを知りました。
 訃報に接して、ひと言でも広く長田さんの面影にふれたくて、コンビニで新聞全紙を買い込んだその日。ためらう涙と沈黙する心のままに、長田さんの本を手に取り、おうかがいを立てるように、ページをめくりました。
 本を通して、もうこの世では会えない人の面影にふれる。指先が紙にふれ、瞳が言葉にふれる。その感触が、そのまま胸の奥に響いて、大切なひとりの人がこの世に生きていたぬくもりそのものが、自分のなかに結実して、宿される。
 もう会えない。
 また会おう、ではなくて、もう会えない。その切実な感触が、会えない人とつながりつづけるひとつの約束となって結ばれる。それもまた、成就のかたちであると思うのです。長田さんの詩を繰り返し読み、そこに綴られた言葉を繰り返し咀嚼することで、詩と、死によって残された約束を、自分のうちに感じていました。

 本屋の棚に並んだ背表紙からお名前だけは度々目にしていた長田弘さんのことを、はじめてそのお声から知ったのは、今年のこと。たまたまネットでたどり着いた数年前のラジオの音源を通してでした。
 お声を聴いて、お話に惹かれ、たちまちファンになりました。
 ラジオの音源はそれから毎朝のように繰り返し聞き、長田さんの本はカフェへ行くときの自分のもうひとつの手であり、眼であり、肺となりました。
 長田弘さんが、風景について語るとき。言葉について語るとき。習慣について語るとき。死者について語るとき。その時々に、私はからだについて教えられ、人について教えられ、整体の可能性について学びを受け、呼吸のくつろぎを取り戻しながら、自分の知りたいすべてについて学び続けていました。
 ですから、ついに生前お会いすることはありませんでしたが、長田弘さんは、私の先生。そう思っています。

 長田弘さんの作品の中に、「世界はうつくしいと」という詩があります。ラジオのなかで長田さんが朗読されていた詩です。思い切って全文、ご紹介します。

うつくしいものの話をしよう。
いつからだろう。ふと気がつくと、
うつくしいということを、ためらわず
口にすることを誰もしなくなった。
そうしてわたしたちの会話は貧しくなった。
うつくしいものをうつくしいと言おう。
風の匂いはうつくしいと。渓谷の
石を伝わってゆく流れはうつくしいと。
午後の草に落ちている雲の影はうつくしいと。
遠くの低い山並みの静けさはうつくしいと。
きらめく川辺の光りはうつくしいと。
おおきな樹のある街の通りはうつくしいと。
行き交いの、なにげない挨拶はうつくしいと。
花々があって、奥行きのある路地はうつくしいと。
雨の日の、家々の屋根の色はうつくしいと。
太い枝を空いっぱいにひろげる
晩秋の古寺の、大銀杏はうつくしいと。
冬がくるまえの、曇り日の、
南天の、小さな朱い実はうつくしいと。
コムラサキの、実のむらさきはうつくしいと。
過ぎてゆく季節はうつくしいと。
きれいに老いてゆく人の姿はうつくしいと。
一体、ニュースとよばれる日々の破片が
わたしたちの歴史と言うようなものだろうか。
あざやかな毎日こそ、わたしたちの価値だ。
うつくしいものをうつくしいと言おう。
幼い猫とあそぶ一刻はうつくしいと。
シュロの枝を燃やして、灰にして、撒く。
何ひとつ永遠なんてなく、いつか
すべて塵にかえるのだから、世界はうつくしいと。

 先日、東京駅にむかう電車の中に、座って本を読む少年の姿がありました。まばらに座席が埋まっているほどに車内はすいていて、私は少年の隣の席に着きました。
 中学生か、高校生に入りたての年頃でしょうか。髪は清々しく刈られていて、エナメルの黒い大きなバックを床に置き、制服の白い半袖のシャツからは日焼けした腕が伸びています。
 頭をわずかに垂れて本をじっと読む。その佇まいは、静かに輝いていました。その少年の姿にならうように、私もカバンから本を取り出して読みはじめました。
 何を読んでいるんだろう。車内で隣り合わせた人の読み物にそんな風に関心を寄せたことなんてなかったのに、彼の姿をいっそう明るいものとしているその文庫本のタイトルが知りたくなりました。目の前に下がる風鈴のその音を聴いて確かめてみたいような、そんな気持ちで。
 終点の東京駅に着いたとき、周りの人たちの立ち上がる気配にまぎれて、そっと視線をすべらせると、少年の手元には、小川洋子さんの『博士の愛した数式』が。私も大好きな本です。耳の奥で風鈴の涼やかな調べが響くような心地がしました。
 そうして、不意に、先の「世界はうつくしいと」の詩の全景が頭のうえに広がりました。
 
 長田さんは、「自分の生まれる前にある言葉というものを、受け取って、それを次の世代に受け渡してゆくのが人間の役目ということ」だとおっしゃっていました。

 「夏の日の、少年の本を読む姿はうつくしいと。」
 東京駅のホームに降りたとき、おのずと浮かんできたこの言葉を胸に抱きながら、長田さんの残していかれてた言葉のたすきが受け継がれていることを、夏の日の少年の姿に重ねながら、感じていました。
by mille-ka | 2015-05-25 09:40 | 曇り時々晴れ

空模様

今朝、調べものをしていると、「風景は気分である」というアミエルの言葉に出会った。哲学者であり詩人でもあったアミエルが、日記に綴った言葉である。
今日の朝方の東京の上空は、そのほつれ目から光をこぼしながら、どんよりとした厚い雲に覆われていた。
この空の風景も、見上げた人の心の数だけあるのだろう。
そんなことを思いながら、胸のうちには桜の蕾のことを浮かべていた。
最近は、起きぬけに部屋の窓から空をのぞくとき、桜の蕾を思うことがセットになっている。近所のお堀沿いの桜の蕾のことである。

それは先月も半ばのこと。
仕事を終えて夜の9時をまわった頃、いつものごとく飯田橋から市ヶ谷方面に向かって外堀通り沿いを歩いていた。
ほとんど毎日、一日を部屋のなかでお客さまをお迎えして触覚の世界の住人として過ごしていると、外へ出るたび、まず、自然には天井がないということに驚くような心地がして喜びがあふれる。呼吸が大きくなって、心もからだも伸びをする。
部屋のなかにいるときも、この空間はなんて気持ちがいいのだろう、と我がごとながら思っているが、外へ出たら出たで、途方もない開放感に胸のうちがスキップをして、嬉しくてたまらない気持ちになる。
以前、友人が、「子どものときに、懐中電灯を夜の空に向けたら、家の天井には光が映ったのに、空には懐中電灯の光が映らないってことを知って…そのときにはじめて、宇宙ってスゴイと思ったの」と話していたことを思い出す。
もう六年も前、今はかわいい女の子のお母さんになった友人もそのときはまだ独身で、お互いに恋の話で盛り上がっていた頃。一緒に国際フォーラムで開かれていた「宇宙博」に行ったときのことだった。
私は彼女のその話がとても好きで、夜空を見上げるとき、ふとその話を思い出しては、子どもの頃の自分自身がそう思ったかのような心地で、懐中電灯の光の届かない夜空を見ている。

散歩道、ぐんぐんと歩みを進めながら、星を見上げて、月を探し、夜風を頬にうけて、一番遠くの音に耳を澄ます。
お堀側へと横断歩道をわたると、足よりも先に、視線が水面へと駆け寄る。
夜のお堀の水面に映る建物の明かり。視線をのばしてそれをとらえる。
風のない静かな夜など、水面はまるで鏡のようになって、建物のなかの照明器具や階段、窓際のカーテンのしわまでそっくりそのまま映し出している。そうでない、さざ波揺れるぼやけた明かりの日もまた、楽しげである。水面は何度見ても心がはしゃぐ。

そうして歩いていると、なにか皮膚にさわるものがあった。正体の見えぬほの明るさのようなもの。
足が止まった。
あ、と気がついた。
蕾だ。
葉一枚とまっていない裸の桜の木の枝の先に、上へ上へと向いて、まだ固く結ばれた小さな蕾が並んで揃っていた。隣の木の枝先にもまた、蕾、蕾。
一本一本注意して見てみると、桜の木の枝も、乾いたそれではなく、つややかな銀色に塗れているようなものもある。
春を待っているのは人間だけではないのだ。
嬉しくなった。
それから、朝晩の散歩の時間がますます楽しみになった。
毎日、花の蕾にご挨拶。
二月も末となると、このところは、蕾の数も盛んになり、いくらかふっくらとくつろいできたようでもある。

今朝、窓の外の雲に塞がれた空を眺めていると、同じ空のしたにある桜の木と枝先に灯る蕾のことを思い浮かべながら、ふいに、この空に大きな懐中電灯で光をあてたら、その光は雲のお腹に映るのだろうか、という疑問がごく自然にわいてきて、胸のうちで尋ねていた。
あのとき一緒に宇宙博で心を弾ませて歩いていた彼女なら、私のくだらないこの質問に、きっと笑って答えてくれただろう。
やさしい朝。
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by mille-ka | 2015-02-25 10:10 | 曇り時々晴れ

旅週

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整体を習ってくださっていたタカノさんのお店、naraさんを訪ねて、先週、大阪へ行きました。念願だった、naraさんとの対面。お店に足を踏み入れて、タカノさんとタカさんにお会いした瞬間に、もう、胸がいっぱいになりました。naraさんをオープンされてから、はじめての再会です。
それに、旅行で二泊もするのは、大学の卒業旅行以来。出発前から、なんだかしみじみとした気持ちになっていました。

大阪へ旅立ち、京都や兵庫にも足をのばしました。帰ってきてからは気持ちも新たに、お店にお越しくださるお客さまをお迎えして、心を込めて整体を。
その週末には、朝から電車に運ばれて、池田塾の開かれる鎌倉へと向かっていました。
今週のはじめには、池田塾でご縁をいただいたI先生の(文系の人に向けた)物理科学の授業を大学の教室で聴講させていただき、頭も心も明るく、清々しく、耕されました。I先生の講義を受けてからは、心のうえにずうっと虹がかかっているように、いっそう晴れやかな気分が弾んでいます。

整体を深めようとするなら、自分の意識できる範囲の勉強方法や手段に頼るよりも、出会いを師として従って、からだが向くままに運ばれた、その場所で精一杯吸収するしかありません。
必要なことにしか出会わない。それもまた、整ったからだのなせるわざ、整体の証だとも思っています。

自分にできることは、まずはからだを整えること。あとは、心に信を抱いて、目の前のすべての出会いを道しるべとして、理由なんて問わずに、出会うまま、からだのままに自分を配置すれば、行くべきところへと自然と運ばれます。
この先の可能性や今後の行き先は自分から探るものではなくて、心の耳を澄まして、現状が教えてくれている声そのものに気付いて知るもの。効率のいい旅なんてないように、効率のいい生き方なんてあり得ません。行く先々での人との出会いとハプニングこそが道程標。自分にふりかかる出来事に意味のないこともなければ、特別に意味のあることというのも、ありません。すべてはからだのままに。今、あらためて、そんな風に思っています。

宝箱のような一週間でした。
昨日から読み始めたのは、I先生が授業でご紹介されていた、CHARLES p.SNOWの『THE TWO CULTURES』。この本の隣に並んで一緒に届いたのは、池上高志先生の『動きが生命をつくる』(青土社、2007)。ノートをとりながら読みすすめています。
目の前に示されるご縁のままにつながっていく不思議。幸せ。

ちなみに、今朝、ふと手にとって読み返していたのは、小林康夫先生の『知のオデュッセイア』(東京大学出版、2009)。小林先生のこの御本は、「無人島に持って行くなら…」に選ぶ三冊のうちの一冊に迷わず入れる、私にとっての特別な本です。

「想像力は移動距離に比例する」。
先週末、池田塾のあとに由比ヶ浜を望む庭先で、I先生に大阪旅の話をしていたとき、「遠くに行くと、それだけで気持ちが脱皮するみたいだ」と言う私に、ビクトルユーゴの残したこの言葉をI先生が教えてくれました。
東京へ帰ってきてからも、まだひとり旅の帰り道の途中にいるような心地から抜けられずにいたのですが、I先生からこの言葉を聞いたとき、「ああ、もう旅から帰ってきたんだ」と、ストンと気持ちが落ち着きました。

上の写真は、宿泊先のホテルの部屋から写した、朝の大阪の街並みです。
話が散らかっていて、まだブログに向かう状態でない気もしていたのですが、毎日たくさんのかたがお立ち寄りくださっていることに感謝を込めまして、取り急ぎ、ご報告まで。

最後になりましたが、あらためまして…
タカノさん、みなさま、素晴らしいお時間を本当にありがとうございました。
by mille-ka | 2013-04-17 08:29 | 曇り時々晴れ

手紙 言葉の花束

昨晩、ポストから投函物を取り出すとき、手書きの文字がのぞいて見えた。
思わず、胸の奥の一点がぽっとあたたかくなる。こんなに嬉しいことってない。手紙は、言葉の花束である。
ときめきを弾ませて、その一枚を引き抜いた。
それは、ニューヨークの街並みの写真が背中に映ったポストカードだった。半年前に写真の示すその地へ赴任した、大切な友だちがいる。その彼女の気持ちを運んでくれた、一枚の、それもまた、一枚の独立した友だちが、手元に舞い降りた。

丁寧に並んだ、ほのぼのとした美しい文字。なつかしいあたたかみをまとった、やさしい言葉。
胸のなかで涙ぐみそうになった。
手紙をくれた友だちのこと、学生の頃からのふたりの思い出、社会人になってからのみんなとの思い出。「全部思い出した」。そんな気持ちになった。
手書きの文字は、言葉の意味より、声をのせて届けてくれる。
心の温度も、その声色のやわらかさも、伝わってくる。
彼女と、二時間も三時間も会って語り合った気持ちになった。
私も、手紙を書こう。

追伸
直接にお返事をする前に、ここに想いを綴るのも野暮ですが、実は、送り主の新しい住所もメールアドレスも知らなくて…よかったら、また会ったときでもメールででも教えてください^^
この場をお借りして、まずはお手紙が届いたこととありがとうの気持ちが伝わっていれば嬉しいです。
by mille-ka | 2013-03-31 07:56 | 曇り時々晴れ

落ち込んだときの対処法 (2.2) 「三変わり観音」

朝からどうにも気持ちの晴れない休みの日。
そんな日に、自然と心に浮かぶ言葉があります。
「三変わり観音」。

この観音様のことを知ったのは、今から二年ほど前。
向田邦子さんと親しかったテレビプロデューサーの久世光彦さんの著書、『触れもせで ━向田邦子との二十年━』(講談社、1992)のなかで出会いました。

そこには、こんなことが書かれていました。
それは、久世さんが幼い頃の一時期を、田舎で過ごしていたときのこと。
小学校の図画の時間に、久世少年はクラスのみんなとお寺へ写生をしに出かけます。
自分はみんなとは違った物を描こうと、集団から外れて参道の脇にある草むらの方へ行くと、そこで、「貧しげな祠」がポツンと建てられているのを見つけます。

━祠の中には身の丈二丈ほどの、汚れた石の観音様がいて、なんだか悲しそうな顔をして私を見ていた。
 身代わり観音というのだと先生が教えてくれた。何百年も前に、近くの沼に身投げしようとした可哀相な娘を見て、その観音様が代わりに飛び込んでくれたのだそうだ。代わりに飛び込めば、どうして娘が幸せになれるのかは判らないが、それ以来、沼から引き上げられた観音様の霊験を頼んで訪ねる信者が後を絶たず、その悩みや病気を観音様はみんな身代わりになって引き受けてくれたという。よく昔話には聞くが、現物に出会ったのははじめてだった。私はこの観音様を描くことにした。先生がいなくなると、今度はこのお寺の老住職がやってきた。これは三変わり観音というのだ、とニコニコ笑いながら教えてくれる。一日に三度、顔が変わるというのである。自分は一日中ここにいるからよく知っている。いまは泣いているが、もうしばらくしたら怒りだす。そうして夜が明けると、何事もなかったように笑っている。だから三変わり観音というらしい。
 私は住職説の方が面白いと思った。きっと光線の加減で表情が変わるのだろう。年月に風化して、ほとんどのっぺら棒のくせに味な観音様である。どれが本当の顔かと訊いてみたら、どれも本当で、三つともが素顔だと住職は当たり前のように言う。そして、最後に、坊やとおなじじゃハハハ、と哲学的なことを言って本堂の方へ戻っていった。


この話を読んだのは、休みの日。ちょうど気持ちがくさくさとしていたときでした。
一読するなり、自分が休みの日に落ち込む理由がわかった、と心の中でストンと納得できた。納得できて、嬉しかった。

整体をしているときは一日、自然といつも笑顔でいられます。
整体そのものが「優しい心」であるから、その光にあたって、お客さまの笑顔とともに、穏やかでしかいられません。毎日整体をしていると、怒り方を忘れてしまう。一日のなかで三変わりになれていない。それは人としてとても不自然なことなのです。
だから、時々、ふとしたことでサラサラと涙を流すこともあるし、二週間に一度あるかどうかの休みの日には、まとまって怒りの顔、と言っても、怒りのもとにあるのは悲しみですから、そんな顔がでてくることもあっておかしくない。長いスパンで「三変わり」を循環しているということなのだから…。
「これでいいんだ」。
子供じみた受けとめ方に聞えるかもしれませんが、私の中では、そのことがとても自然に「よくわかった」という思いがして、気持ちが晴れました。

私の大切にしている言葉に、こんな言葉があります。
「よく知っているという事は許せるという事と同義語である」。
山田詠美さんのエッセイのなかに書かれていた言葉です。

「三変わり観音」の話から、世の常人の常と、それまで悩みの種だった、ほとんど休みの日に訪れる自分の受け入れがたい状態の理とを、直感的に「よく知った」。よく知って、どうしても心が起き上がらない日、力の湧かない日にも、そんな自分を「これでいい」と許せるようになった。
気持ちが沈む日には、そうなってからさらにねっとりと募ることのあった、ぐずぐずしている心を、奥へ押しやってしまいたくてもできないもどかしさからも、心のどこかではそんな自分を「弱虫」と責めていた息苦しさからも、解放された。時々涙を流すのも、それでいいんだと思えた。自分自身にも隠したかった、自分の「弱さ」だと思っていたことを、「これも素顔なんだ」と許せるようになった。そうして、気持ちがラクになった。

「よく生きる」うえでは、時には、それが本当かどうか、正しいか正しくないかから離れて、自分にとっての納得が正解であっていい。そんな思いのなか、「三変わり観音」の話がお腹と胸のうちにおさまりました。
以来、「三変わり観音」、この言葉を浮かべることもまた、私にとっては気持ちが落ち込んだときの対処法です。
by mille-ka | 2013-03-30 07:51 | 曇り時々晴れ

落ち込んだときの対処法 (2.1)

今朝の曇り空に視線を投げかけながら、ふと、思いました。
見上げた空の天気に人間の力が関与できないのと同じで、心の空模様もあちらからやってくる。
わけもなく気持ちがふさぐ日は、前触れもなく誰にでも訪れます。
どうしてだか心の晴れないときを迎えて、「今日はその日か」と、少したじろぐことも私自身いまだにあります。

突然、人生の海原で自分が今、どこにいるのかわからないように思えるとき。このまま進むことに何の意味があるのかと問いたくなるとき。言いたいことがありすぎて、なにも言えなくなってしまうとき。心の水面がなにごとにも揺らめかなくなったとき…。
その時々で、気持ちのふさぎようも色々です。
「そんなときは、どうしていますか?」と、これまでお客さまや友人たちから何度かたずねられたことを、今でも時折考えています。

イライラする気持ち、ずっしりとした不安感、心が落ち着かなかったり落ち込んだりする日がつづくとき。そんなときは、たいてい、からだの方に原因がある。それが私の受けとめ方です。
日頃、ぐっと我慢することが多かったり、不摂生な生活がつづいたりすると、からだのこわばりが知らず知らずのうちに蓄積されます。すると、背骨の周囲に硬直を抱えたまま、ラクな姿勢をとろうとして、からだには歪みや慢性的な緊張が生じます。だんだんと寝ても疲れがぬけにくくなってくる。
今度は、そんなからだの緊張や息苦しさが心の方に影響して、気持ちがいつもささくれだっていたり、不安定な状態になってしまう。
そんなときには、まずはからだをゆるめて整えるために、整体を受けて欲しい。私は整体師なのでそう思います。

そうではなくて、もっと単発的に訪れる、気持ちがぐずぐずする日。今の自分をどうしても受け入れがたい気持ちになる日。
そんな日は、私の場合、たいてい休みの日にやってきます。
「そおゆう日には、どう過ごしているのか」と聞かれると、「その時々の直感にまかせる。行きたい場所があったら足を運ぶし、食べたいものが浮かんだらそれをいつもよりほんの少し丁寧にいただく。気になる本に手をのばす。そのときにふと手に取った本のなかで、必要な言葉におみくじのように出会えることがある。何もする気が起きなかったら、積極的に寝てしまう」。
そんな、ほとんど答になっていないような返事になってしまいます。

わけもなく気持ちがふさぐとき。
例えば、ひとりでいるよりも、自分をほっといてくれる誰かがいてはじめてくつろげることがある。
一日のなかに句読点を打つように、これは心の天気とは関係なくでもあるのですが、私はよくカフェに行きます。
カフェが好き。やさしい毛布にくるまるように、身をあずけられるカフェの片隅で心を泳がせる時間は、私にとっての整体タイム。たとえそこで本を読んでいても、その物語の主旋律はカフェの空間そのものという雰囲気にたゆたう時間がたまらなく心地いい。
ちなみに、整体院の店名に「cafe」とつけたのは、カフェに対するそんな個人的な思い入れを込めたからです。

気持ちが疲れていても、からだが動けば、物言わぬ歴史の結晶や先人の足跡、天才の軌跡に触れるべく、美術館や展覧会にでかけることもあります。
本物の美しさを前にすると、それまでざわざわとおしゃべりのやまなかった心はいっきに沈黙の世界に引き込まれます。目の前に佇む大きくて緻密な「働き」や「生き方」の姿から、心は無言のうちに「よく生きる」ということを学びとる。
美術館をあとにしたときには、心身は少しくったりとしながらも新しい力で満たされている。それは、展示品のオーラそのものに感化されたり、心が洗われたりしているからでももちろんありますが、一方でこんなことも思うのです。
「この絵や彫刻の前を、いったい何人の人が通ったんだろう」。「今までも、これからも、この絵や彫刻は、私の生きることのなかった時代の人たちを見続ける。それでも、その眼を残したのは、自分と同じ構造をもったひとりの人間だったんだ」。
そう思うと、気持ちが正しく謙虚になって、不思議と力が湧いてくる。

食事に関して言えば、心にもからだにもいまいち力が入らないときには、ばらばらの単語ではなく、物語のあるご飯が食べたくなります。
特に休みの日には、自分のからだの欲する食べ物、気持ちになじむ食べ物を、いつもよりも丁寧に探ります。その結果、大概、カレーかきちんとお出汁からとった和食に行きあたる。そうして、自分とからだに食事を運ぶ、という気持ちで、さらには、物語を味わうように、心持ちゆっくりといただきます。

食事を口にしてからだに栄養やそこに込められた気を取り込むように、心には本から直接に栄養をもらいます。元気いっぱいのときには、私はなかなか本を読もうという気になりません。
もともと本が好きなので、読まない日はないのですが、本をおいしくいただけるのは、心に少し溝のある日。
心の溝に本が橋をかけて内面の行き来を助けてくれるうちに、いつの間にか、心の溝も埋まっている。

何年か前に、その橋のひとつとなった一冊の本の中で、こんな言葉に出会いました。
「三変わり観音」。
どうにも気持ちが沈むときに、心の表面に自然と浮かんで、落ち込んでいる自分を責めたくなる一日をゆるして、救ってくれる言葉です。
次回は、この「三変わり観音」のお話をご紹介しますね。
by mille-ka | 2013-03-27 08:40 | 曇り時々晴れ